神社に呼ばれるって、どんな感じ?

先日、神社に呼ばれるということは
参上して特別な使命を授かることでもない限り
特別なことではない、と、書きました。

誇れることではない、とも思っています。

では、なぜ、私がブログに「呼ばれた」と書くのか?

誇りたいからじゃないの?

私がブログに「呼ばれた」と書くのは、
スピで感じたことを書き残す、という基準で書いています。

例えば、花好きブロガーさんが
「珍しい花の苗が売っていた!」とか
「今年もバラが咲いた」と書くのと
同じ感覚だと思っています。

実際に神社に呼ばれているのか、妄想なのか。
視覚的に実証できる物は何もなく
証明するすべは何もありません。

タイミング良すぎ!とか、
スムーズに事が運んだ!とか、
驚くべき出来事に遭遇した!とか。

そういうことにこじつけて、
勝手に呼ばれたと言っているだけかも
知れません m(__)m。

最初のころは、
自分が行きたいと思っている感覚を
呼ばれたという表現に置き換えているのではないか?と
自分を疑う感覚がありました。

でも、7年近くスピをしているうちに、
自分の思いとは別のところで、
グイグイ 押されるというか 引っ張られるというか、
そういう感覚の存在を明確に感じられるようになった
ことは確かです。

実際、名前が初耳とか、知識も興味もないとかの 京都の神社仏閣へ
行きたくもないのに、2週連続で泊りで行って、
しかも2週連続で同じ神社を巡って歩くなんてこと、
普通しませんよね。

でもね、がっつり呼ばれているときは、
ほとんど抵抗できずに それをするんです。

実際に、私、しました (^^;
二泊三日+一泊二日=10万円弱 かかったかな。

一回目の(二泊三日の)滞在から帰ってきて 感じたのは、
不足感。全然、安堵してないの。満足してないの。

でね、その不足している感覚に対して
「一体、何が足りないっていうのよ。
3日間も行ってきたじゃないの。
十分廻ってきたのでしょ。
一体、他に何が足りなかったっていうのうよ!」って
怒っている自分がいました(笑)。これ、ホントの話(笑)

その不足感は半端なく、
結局、夜行バスで京都から帰宅した朝、
自宅で、翌週の京都の宿の予約をしている私がいました(笑)。

傍から見ると、バカみたいな話です。

京都には二回行って、普段通りの感覚に戻りました。

満足感はゼロ。「当然の事でしょ♪」って感じでね。

「はぁ???(何言ってんのよ!)」と思っている自分もいました。

内なる自分と自分。この二人がいる感じです(^^;

呼ばれている感覚。

それは、イモ洗い状態の 広くて大きな 流れるプールの
真ん中に落とされた感じかな。。。(^^;

そんな時は、人と水の流れに乗るのが 自然の流れ ♪

プールの中で止まること、プルーサイドにたどり着くこと、
プールから上がることは、至難の業。

仮に、プールサイドに上がれたとしても、
すぐに、プールに突き落とされてしまう感じ。

流れに乗って、時が過ぎて、プールサイドに上がれる時期を待つ。

それが呼ばれた時の感覚に似ています。

テキストのコピーはできません。