更新日:2019/12/22
秩父神社と妙見信仰について知りたくなって、調べてみました。
インターネットで調べてみると、抽象的に書かれていたり、全然違うことが書かれていたり、結構色々ありました(^^;
で、私なりに時系列に整理してまとめてみました。
これはその備忘録です。
文字ばかりですが、ご容赦ください。
尚、※印は 補足的備忘録です。
崇神天皇の時代(西暦?年)
秩父神社の起源
秩父神社の始まりは崇神天皇の時代。
平安初期の書物「先代旧事紀-国造本紀-」によると、第十代崇神天皇(すじんてんのう)の時代に、八意思兼命(やごころ おもいかね の みこと)という神様の十世の子孫である知々夫彦(ちちぶひこ の みこと)が「知々夫国造(ちちぶ くに の みやつこ)」に任命された際、自分の祖先である八意思兼命をお祀りしたとあり、これが秩父神社の始まりと言われている。
※ 八意思兼命は、天照大神がお隠れになった天岩戸から出てくるようにするにはどうしたら良いかアイデアを出した神様です。そのアイデアが採用されて、天岩戸の前でアメノウズメミコトがダンスを踊ったんですね。八意思兼命はその頃のお方(神様)なので、もちろん、実在したかは不明です。
※ 崇神天皇も実在していたか議論が分かれる天皇だそうです。
※ 知々夫彦は実在した人物のようです。
※ ちなみに、「崇神天皇の時代」は古事記や日本書紀を基にすると紀元前97年~30年ごろと言われているようですが、遺跡などから推察すると200年~300年ごろではないか、という説もありました。
※ 秩父神社HPには「平成26年には御鎮座2100年を迎え...」と記載があるので、逆算すると、紀元前86年を始まりの年と定めていると推察できます。ウィキペディアには「(伝)崇神天皇10年」とありましたが、果たして。。。
允恭天皇の時代(412~453年)
知知夫彦命 誕生
知知夫彦の九世子孫である知知夫狭手男(ちちぶ さでお)が允恭天皇(いんぎょうてんのう)の勅命を受けて、葉葉染の森(ははそ の もり)に知知夫彦を合わせて祀ったといわれている。
これにより、知知夫彦は秩知知夫命(神)となった。
※ 知知夫狭手男の読み方が調べても分からず、秩父神社にお問合せしました。「ちちぶ さでお」と読むのだそうです。
天慶年鑑(938~947年)
妙見菩薩を秩父に勧請
平将門とその叔父 平良文(たいら の よしふみ)が、上野国(こうずけ の くに)群馬軍(くるま ぐん)府中花園で将門の叔父 平国香(たいら の くにか)と戦い窮地に陥った。
その際、雲の中から童子姿の神が現れ、その神の助けによって将門・良文軍は勝利した。
その童子神が七星山息災寺の妙見菩薩であることが分かり、良文は妙見菩薩を守護神と崇め、妙見菩薩を花園妙見寺から自身の本拠地であった武蔵野国大里郡藤田に勧請。
その後良文は秩父に居を構え、秩父に妙見菩薩を勧請した。
※ 「将門・良文 vs 国香」の他「将門 vs 国香・良文」という記述も見つかり、真偽は不明。
※ 平良文と平将門の父(平良将=たいら の よしまさ)は、兄弟。平良文と平国香も兄弟。争いのきっかけは、平良将の遺産相続問題。平良文がだれに加勢したとしても、骨肉の争いであることは確かであり、いつの世も同じで、悲しいに尽きます。
鎌倉時代(1185年~1333年)
秩父神社 落雷炎上
『秩父大宮妙見宮縁起』によると、嘉禎元年(1235)9月、秩父神社に落雷し社殿が焼失。
秩父神社再建に当たり 妙見菩薩を秩父神社に勧請した。妙見菩薩の勧請元については、以下の3つの説があるようだ。
勧請元:秩父市宮地 説
秩父・真奈井原(現秩父市宮地)にあった妙見神を秩父神社に合祀し、知知夫彦命(秩父神)は神宮地司摂社に祀られた(平成12年の秩父神社 権禰宜の甲田豊治さんの講演にて)。
※ 摂社に追いやられてしまった知知夫彦命。それだけ、平良文の子孫のチカラが強かったということでしょか。いと悲し。。。
※ 秩父の下宮地にある広見寺には妙見菩薩も祀られていますが、広見寺の公式HPによると「明徳2年(1391)開創した」とあり、秩父神社落雷火災の頃(嘉禎元年(1235))にはまだ無かったことになるので、勧請元は広見寺ではないと言うことになります。
勧請元:大野原の愛宕神社 説
現在の大野原の愛宕神社の地から妙見菩薩を合祀(某サイトにて)。
※ 現在の大野原の愛宕神社は、妙見菩薩が柞の森に引越して空席になった地に、秩父の鎮護の為に、火伏の神である愛宕神社を勧請した、という話でした。真偽はいかに。。。
※ 秩父札所1番~5番を徒歩で廻っている最中、『この地は火の気だ』と感じてながら歩いていたことを覚えています。札所6番~11番とは全く異った『気』でした。
その後、大野原に大き目の愛宕神社があることを知り、『火の気』だから鎮護の為に愛宕神社があるのかなと思いましたが、ひょっとしたら愛宕神社ができて一帯の気が変わったのかも。
でも、あまりにも広範囲なのでさすがに今世まで脈々と続くそこまでの影響力はないんじゃないかと思います。
勧請元:秩父神社の北東 説
(秩父)神社の北東に祀られていた妙見菩薩を合祀(秩父神社はHPにて)。
※ 地図で見ると、秩父神社と秩父・真奈井原(現秩父市宮地=下宮地の妙見大菩薩の辺り?)と大野原の愛宕神社は一直線上に並んでいます。方位は北東というより、北または北北東。
果たして勧請元はどこなのか...?
妙見宮誕生と妙見信仰の広まり
この鎌倉時代の妙見菩薩 合祀 以降、「秩父大宮妙見宮」と呼ばれるようになった。そして、妙見信仰が広まった。
室町時代中期(1394~1428年)
神職 薗田氏 誕生
秩父神社 社記に「応永四年(1397)の秋七月、鎌倉の主将足利左馬頭氏侯、中村の氏、薗田の氏此二氏に命じて神社の再興を営もふさしむ」とあり、丹党中村氏が奉斎の中心にあり、神職として薗田氏があって、今日の祭祀が整えられた時期はこのころと考えられる。
※ 秩父神社の現在の宮司は薗田 稔氏。京都大学名誉教授でもあり、宗教学や民俗学の視点を入れた神道研究家、日本宗教史研究家、とのこと。権禰宜は薗田 健(たける)氏。神職が代々継承されていると思うと、日本の継承文化って凄いなと思います。
戦国時代(1467~1573年)
秩父神社 信玄焼き
永禄12年(1569)ごろ、武田信玄率いる甲州軍が秩父に侵入し、秩父地方の寺社仏閣に火を放ち焼き払った(=世にいう信玄焼き)。この時、秩父神社も消失。
江戸時代
秩父神社 再建
天正二十年(1592年)に徳川家康公が当時の代官である成瀬吉衛門に命じて秩父神社を再建。
現存する御社殿はその当時再建されたもので、現在は埼玉県の有形文化財となっている。
江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。
この神宮司社には知知夫彦命が祀られており、境内の中心ではなく周囲に配されている様子からは元の秩父神社の衰微(衰えて勢いが弱ること)の表れであり、この状況を「正にことわざにある『軒を貸して母屋を取られる』の状態であり、社寺にはよくあること」と評した記述が斎藤鶴磯の『武蔵野話』に残っている。
母巣山 蔵福寺
この頃は神仏習合の時期であり、妙見宮には広見寺(曹洞宗)の僧侶が開山した『母巣山(ははそやま)蔵福寺』という別当寺(神社内にある寺)が境内にあり、その別当寺が神社を管理していた。
蔵福寺のご本尊は十一面観音像であり、当時、秩父15番札所として栄えた。
そして、妙見菩薩も蔵福寺に祀られていた。
※ 別当寺とは「別当がいる神社内の寺」のこと。別当とは、本職(ここでは僧長)以外に神社の管理運営を担う長官のことをいいます。つまり、別当寺は神社の敷地を間借りをしていたわけでなく、神社の中に入り込みその神社や周囲の神社をも管理する(事実上、支配する)立場の寺でした。
※ 神宮寺も「神社内にある寺」を意味する言葉ですが、別当がおらず権力がありませんでした。
明治時代
秩父神社 復活
神仏判然令(神仏分離)を機に名称を妙見宮から秩父神社に戻し、ご祭神も八意思兼命(やごころおもいかねのかみのみこと)と知々夫彦命の二柱に改め、神宮司社は廃止した。また妙見菩薩は天之御中主神として祀られるようになった。
廃寺:母巣山蔵福寺
神仏分離により、それまで秩父神社で妙見宮を祀り 秩父15番札所としても栄えていた母巣山蔵福寺(別当寺)は廃寺となった(=廃仏毀釈)。
そのため、札所15番は一時欠番となり、それを悲しんだ信者たちの請願によって、市内柳島(現・東町)にあった五葉山(ごようさん)少林禅寺を現在の場所(現 番場町)へ移し札所15番を継承することとした。
もともと、蔵福寺のにあった札所本尊の十一面観音菩薩は小鹿野町の十輪寺に譲渡され、現存しているのだとか。
※ 現在、秩父15番札所の入り口にある新旧2つの寺標には『五葉山 少林寺』と刻まれています。「これは昔の名残り」との記述を散見しますが、「これは名残りではなく、現在も当寺院は『五葉山 少林寺』であり、臨済宗 建長寺派の寺院です」とのこと。
現在の秩父15番札所誕生のいきさつに配慮し、札所連合会では、秩父札所巡礼において、正式名称:五葉山 少林寺について、元の15番札所 母巣山 蔵福寺の山号と寺号を組み合わせた母巣山 少林寺として表記することに統一しているのだそうです。
※ 御朱印帳にもそう書かれていました(赤線部2ヶ所:平成26年 総開帳にて)。
以上は、五葉山 少林寺さんからのご回答です。「臨済宗 建長寺派 と 曹洞宗が 宗派を超えて一つになることはあるのだろうか?」と疑問に思い、お問合せしました。ご対応、ありがとうございました。(五葉山 少林寺=臨済宗 建長寺派。母巣山 蔵福寺=曹洞宗 広見寺の僧侶が開山した寺。)
※ このころ妙見宮にあった薬師堂は、明治3年(1870)に秩父札所3番常泉寺に移築され観音堂として現存しています。
編集を終えて。。。
歴史は本当に苦手。時代の前後関係がまったく理解できないし、人の名前も相関関係も読んだ矢先に忘れちゃうし、言葉の意味もちんぷんかんぷん。
調べて理解できたとしても、10分くらいで忘れちゃう、本当に (^^;
なので、忘れてもいいように、まとめてみました。
まとめてみて思ったこと。
それは、日本って面白い国だなぁ、とつくづく思いました。
秩父夜祭は秩父神社のお祭り。その主人公は神の名を借りた菩薩(仏教)と龍神(自然神)。
主催者は神教。氏子は無宗教。最近は外国人さんの参加もOKにしたりしてね。。。(^^;
他の国であれば、他の宗教を敵視して優位性を強調して他を排斥する方向に動くのに、受け入れてもらうために共通点を見つけ出し提案し、またその提案に耳を傾けそれを受け入れてしまう文化なんですね。
目新しいものが好きで、目移りしやすい文化という言い方もできるかな(^^;
マイナス表現を使うなら、主体性がないとか流されやすいとか忘れっぽい国民性とかそんな言い方になるのかもしれないけれど、プラスに表現するなら、相手の意見に耳を傾ける ゆとりと包容力がある、良いと思えれば受け入れる 心の広い国民性と言えるかもしれませんね。
まとめるのは大変でしたけど、整理できて良かった。面白かったです(^^♪
もう少し調べたいことがありますが、それはまた別の機会に。。。
●主な参考サイト
・秩父神社社報「柞の杜」 第52号 (平成27年12月3日)
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